パリ時代からのゴッホの画風

フィンセント・ファン・ゴッホがいわゆる「自分探し」を追及していていき、27歳で画家になることを決意してからゴッホが亡くなった37歳までの10年間。ゴッホの作品はこの10年間に集約されています。ゴッホは画家になることを志した初期の頃つまりまだ30歳未満のころは、版画やデッサンを教本として模写していますがハーグへ移り、ハーグ派のリーダー的存在だったアントン・モーヴの手ほどきを受けることで、本格的な水彩画を描くようにありました。そしてそこから油絵も描き始めるようになりました。初期の頃はとかく暗い色調のものが多く、伝道師として活動していたころのように貧農で貧しい人たちの汚れた格好を描くことに、ひたすらフィンセントの関心は寄せられていました。その中でも、今回の目玉の展示品にもある『種まく人』がありますが、フィンセントはジャン=フランソワ・ミレーの影響を強く受けていたことから、「種まく人」であったり「麦刈る人」の模写を終生描き続けていきました。

フランスへ移ってからのフィンセント

フィンセント・ファン・ゴッホの画風が大きく変わるのは、フランスへ移ってからです。画家になることを志してベルギーのボリナージュ地方クウェムに暮らしていましたが、経済的な理由で実家に戻りオランダの実家エッテンで、田園風景や農夫たちの素描や水彩画を描き続けました。実家で暮らしているときに、クリスマスへ教会にいくことを拒んだフィンセントと牧師の父親との対立で、実家を出て再びハーグへと行き、ハーグからオランダ北ブラバント州ニューネンの農村でも暮らし、農民の絵を描いたり働く織工などを描いています。この時期の色の色調はとても暗いものです。

オランダ時代の集大成とも言える対策は、1985年に春に数年間に渡って描き続けた農夫の人物画で、フィンセントの最初の本格的な作品といわれる「ジャガイモを食べる人々」を完成させています。オランダからベルギーのアルトウエルペンへ移り、その頃に日本趣味に魅了されたこともあり多くの浮世絵を買い、オランダ時代とベルギー時代からついにパリへと舞台を移します。

1886年パリ

ゴッホがパリへ移り住んで時代はまさに、印象派と新印象派が花盛りの時代でした。暗い色調ばかりの絵を描いていたフィンセントからすると、パリで主流として絵が描かれていた明るい色調には驚いたことと思います。パリは画商として働く弟テオを通じてパリで活動している多くの画家たちと親交を結びながら、多大な影響をうけることになります。

1887年夏に描かれた「アニエールのレストレン」という作品は、フィンセント・ファン・ゴッホの作品とは思えないほど明るい色調で、印象派の強い影響をうかがうことができます。そしてこの頃に、新印象派の点描による作品も描いています。ベルギー時代にジャパネズリーなる日本趣味に魅了されたフィンセントは、パリでも興味の対象は変わらずにに多数の浮世絵を収集しています。収集するだけではなく、3点の油彩による模写を残しています。

この当時のジャポネズリーなる日本的な趣味の傾向は、フィンセントだけではなく他の印象派たちドガ、マネ、モネなどの印象派やポスト印象派たちの画家たちに共通した傾向です。この背景には、日本の開国に見られるような、活発な海外貿易と植民地政策によって、西ヨーロッパ社会にするとマーケットとして市場とその世界が急激にそして急速に拡大したという時代状況があります。他の画家達見られたジャポネズリーとは違って、ゴッホやゴーギャンの場合には、純粋にヨーロッパにはない異国的なものへの憧れと、新しい造形表現をするための手がかりとしての意味からジャポネズリーへの傾倒としての特徴になっています。

そのためゴッホは、「僕らは因習的な世界で教育されて働いているものの、自然に立ち返るときではないか。」のようなものを手紙に書いているため、その理想として日本や日本人に理想を置いていたことが推測されます。ヨーロッパ特有の、制度・組織に縛られないユートピアへの憧憬を抱いたものを投影する態度は、「地上の楽園」や「黄金時代」に見ることできます。

精神的な面でのジャポネズリーだけではなく、造形的な面でも影響を受けています。フィンセントは、日本の浮世絵から、色と形と線の単純化という手法を学びます。浮世絵から学んだ色と形そして線の単純化の手法を応用している様子を伺える作品として、アルル時代の果樹園のシリーズや「種まく人」といった独特の遠近法に、浮世絵の影響を見ることが出来ます。フィンセントのアルル時代すごした前半に見られる明確な輪郭線と平坦な色面による装飾性は、フィンセントと同じように浮世絵に学んだベルナールたちといったポスト印象派の暗い輪郭線によってくっきりと分けられたフォルムで描く手法のクロワゾニスムとおなじです。

古典的な遠近法を気にすることなく、単純で平坦な色面を用いて空間を表現しようとする手法は、クロー平野を描いた安定感のある「収穫」などの作品に結実しています。しかし、同じくフィンセントの過ごしたアルル時代の1888年夏以降の作品になると、補色の使用とともに荒いタッチで厚塗りの作品が増えてきます。このことから、フィンセントが目指した印象派からの脱却そしてバロック的・ロマン主義的な感情を表現する方向へ向かっていることが分かります。フィンセントの作品の特徴は、図柄だけではなく、絵肌:マティエールの美しさにも、こだわりぬくフィンセントらしい作品の特徴になっています。

フィンセント・ファン・ゴッホの色彩理論

フィンセント・ファン・ゴッホ作品の支えるもう一つの支柱ともなる要素が、補色に関するゴッホの色彩理論にあります。色相環では、赤と緑、紫と黄、といったように反対の位置にある補色は、並べると互いの色を引き立て合う効果があります。フィンセントはパリの前に過ごしていたオランダ時代に、シャルル・ブランの著書を通じて補色の理論を理解していました。

アルル時代では、その補色を作品の中で、何らかの象徴的意味を表現するために使うようになっています。例えば、「二つの補色のマリアージュで二人の恋人たちの愛を表現すること」を目指したことが手紙にも書かれています。そして1888年9月に描かれた「夜のカフェ」でも「赤と緑によって人間の恐ろしい情念を表現するには?!」といったことに配慮した作品効果が感じられます。この頃同時期に描かれたアルル時代に描かれた作品で、クレラー=ミュラー美術館に所蔵されている「夜のカフェテラス」では、黄色系と青色系の対比によって、それはとても美しい効果を生んでいることがわかります。

フィンセントは1889年5月から過ごしたサン=レミ時代には、そこから更にバロック的傾向が顕著になります。そして「麦刈る人」のような死のイメージをはらんだモチーフを、作品のテーマとして選ばぶとともに、この頃の作品には自然の中に引きずり込まれる興奮が表現されています。その筆触には、新印象派の点描に近い技法が使われていて、平行する短い棒線と、柔らかい絵具の曲線がまるで渦を巻くように波打つものといった二つの手法が使われています。そして色彩の面では、補色を使うよりも、同一系統で描かれ色彩の中で同一系統の色の微妙な色の差のハーモニーが追求されています。そしてこの頃の作品にはタッチに無駄がなくなっています。そしてキャンバスの布地が見えるほどに薄い塗りの箇所も見られるようになっています。

今回の【印象派を超えてー点描の画家たち】では、このゴッホの色彩理論と新印象派の影響を受けた点描作品『種まく人』で、分割主義と点描、そして色使いを新印象派たちの作品とともに、どのようにフィンセント・ファン・ゴッホが受けたのかを観賞することができます。その面では単に「ゴッホ展」ではなく新印象派と展描に焦点を絞り、そしてゴッホ作品が好きでそして新印象派作品もコレクターとしても有名なクレラー=ミューラー美術館の所蔵品とともに、新印象派のうねりがどのように次のキュビズムへの流れを受けたのか?!という視点で見れることも珍しい試みの美術展になっています。

20世紀最大のコレクションのクレラー=ミュラー美術館所蔵作品が来日!点画主義にフォーカスした美術展

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