クレラー=ミュラー美術館

今回の『【印象派を超えてー点描の画家たち】ゴッホ、スーラからモンドリアンまで』は、クレラー=ミューラー美術館の全面的特別協力があって、開催されました。ゴッホ美術館と並び2大ゴッホ美術館とも称され、また所蔵されている作品の数々も高い評価を受けている美術館ですが、緑に囲まれて広大な敷地の中に彫刻が展示される方法は、箱根にある彫刻の森美術館の参考にもなった美術館です。

オランダ・ヘルダーラント州エーデのデ・ホーヘ・フェルウェ国立公園内のオッテルロー村にある美術館がクレラー=ミュラー美術館です。アムステルダムからクレラー=ミュラー美術館へ行く場合には、列車でアペルドールンまたはエーデ・ワーゲニンゲンまで行き、そこからバスに乗り換えます。クレラー=ミュラー美術館の入館料の他に、国立公園の入場料が必要になりますが、広い国立公園内を自転車で廻ることもできます。白い自転車を借りて、国立公園内をサイクリングしながらヨーロッパ最大規模を誇る彫刻庭園を散策することもできるので、かなり効率的に巡ることができるでしょう。

クレラ=ミュラー夫婦

ヘレン・ミューラーは、1869年2月11日にウィルヘルム・ミューラーとエミリー・ネッセとの間に誕生した3番目の子どもとして、ドイツのエッセン市に近い町のホルストで誕生しました。1876年のヘレン・ミュラーが7歳の時に、デュッセルドルフへミューラー家は移住しています。父親のウィルヘルム・ミューラーは、鉱業と高炉の生産物の販売に携わっており、自分の会社となるWm. H. Müller & Co.を創業しました。そして創業から2年後には、ロッテルダムに支店が開かれることになり、ウィレム・クレラーがロッテンダムの運営を任されることになりました。

ウィレム・クレラーの末弟だったアントン・クレラーは、最初にミューラー家と仲良くなりました。彼はWm. H. Müller & Co.で、ロープを習いながらミューラー家と共に過ごしていました。そして1887年に18歳になるヘレン・ミュラーとアントン・クレラーが、ヘレンの父親の事務所で再会することになりました。そして、アントン・クレラーとヘレン・ミュラーの2人は1888年に結婚して、ロッテルダムに移り住みました。

結婚した翌年の1889年に、アントン・クレラーはWm. H. Müller & Co.社の社長になりました。会社はアントン・クレラーのリーダーシップのもとで、アメリカとの穀物取引をはじめとして、輸送、北アフリカとスペインでの鉱石採掘といった事業など、かなり大きな影響力を持つとても強力な国際企業へと成長しました。

アントン・クレラーと、ヘレン・ミュラーとの間には、1889年から1897年の8年間の間にヘレン、トゥーン、ウィム、ボブという4人の子供をもうけています。クレラー一家は、会社の本部があるハーグに長い間すんでいましたが、1916年初頭のころにワッセナーへと引っ越しをしました。そしてそれからさらにクレラー一家は、フェルウェ地域の中央にあるH.P. ベルラーヘが設計した聖ヒュベルトスの猟館にも数年間の間住んでいました。アントン・クレラーはとても熱狂的な狩猟愛好家だったこともあって、その地域の数ヶ所の農地と、6,000ヘクタールの森林と荒地を数年かけて買い取りをしています。

この自然保護区の中心部で、クレラー=ミューラー美術館が1938年に開館することになりました。妻のヘレン・クレラー・ミュラーは美術館が開館した翌1939年に70歳で亡くなり、夫のアントン・クレラーはその2年後に亡くなりました。クレラー=ミュラー夫婦の二人は、美術館に近いフランスの丘なるFranse Bergに埋葬されています。

美術収集

1905年に、ヘレン・クレラー・ミューラーが美術品の収集を始めています。美術収集始める考えが浮かんだのは、美術評論家で画家のヘンドリクス・ペトルス・ブレマーの美術鑑賞講座を受講をしたことがキッカケです。ヘレン・クレラー・ミューラーは、ブレマーの講座にかなり刺激を受けたことで自分で美術品の収集を始め一番最初に購入したのが、1903年に亡くなったゴーギャンの作品「汽車のある風景」です。ゴーギャンは同時期の作家からの受けも悪く、生前に高い評価されることなく貧困と絶望の中で亡くなりましたが、ゴーギャンは亡くなってから少しずつ名声と尊敬を獲得していくようになりますがゴーギャンが亡くなって5年後に早くもゴーギャンの作品を購入したヘレン・クレマー・ミュラーの美術に対する造詣の深さを感じることができるでしょう。

ブレマーの手助けもあってヘレン・クレラー・ミューラーの収集作品数は急激に増えていき、彼女自身が一番好きな画家のファン・ゴッホも、ゴッホ家を除いて世界一となったコレクターになりました。美術品の収集の助言家には、美術評論家で画家のブレマーだけではなく、建築家のヘンリー・ヴォン・デ・ヴェルデもクレラー家の良きアドバイザーとなりました。ヴェエルデが1922年にジョルジュ・スーラー「シャユ踊り」を購入するチャンスをヘレン・クレラー・ミューラーに与えたのはヴェルデです。「シャユ踊り」は、ヘレン・クレラー・ミューラー最後の大きな買い物になりました。

ヘレン・クレラー・ミューラーの美術収集

ヘレン・クレラー・ミューラーは1925年に自主出版しています。その本は『現代絵画の発展に関する事項についての考察』についての、彼女自身が芸術が発展するために芸術全体に強い影響を及ぼしているふたつの「写実主義」と「観念主義」についての考察です。これらは両方とも観察された現実に基づいているものです。芸術こそが写実主義だと考えている芸術家たちは、観察すること。つまり色と奥行きの効果、光の使用、物質の表現といった観察に注目しています。観念主義者はどうかというと、対象物を抽象化することで、現実に対する彼らの「考え」を抽象化するもので見せるという傾向があります。

その「写実主義」と「観念主義」について彼女が記している言葉によると「このコレクションを並べて展示にする目的の一つは、抽象芸術は克服できないものでは決してなく、常に存在してきていることを示す【つまり証明する】ことでした。それが、ここで新しい作品と古い作品が並んで展示されている理由です。私は、新しい作品の生存権を古い作品によって立証したかったのです。」

古い作品と新しい作品を並んで展示して「みせる」ことで、抽象芸術は常に今までもこれからも存在しているということを、ヘレン・クレラー・ミューラーは証明してみせたのです。

ヘレン・クレラー・ミューラーが個人的に好きだっのは、フィンセント・ファン・ゴッホだったので彼女のコレクションの中心だったのは、ゴッホの作品でした。ゴッホの作品、油絵91点素描画などの作品175点を購入していますが、ヘレン・クレラー・ミューラーがゴッホの作品が好きだった理由には、ゴッホの表現方法であったり、技法とかでもなく、ゴッホ自身の人間性に着眼してゴッホの価値こそ、その新しい人間性から近代の表現主義を生み出したことに価値を見出していたからこそ、ゴッホのコレクターとなりました。

ゴッホのほかに、ヘラン・クレラー・ミューラーが賞賛したのは「キュビスト:立体派」の芸術家たちです。ヘレンは、パブロ・ピカソとホアン・グリスの作品を購入して、とても強い情熱でその時代新しい息吹を放った新しい芸術の流派「キュビスト:立体派」この新しい流派を擁護して援助しました。それだけではなく、今回の展覧会『【印象派を超えてー点描の画家たち】ゴッホ、スーラからモンドリアンまで』とあるように、芸術展覧会第5章でとりあげているピエト・モンドリアンの初期の作品にも、注目するとともに、大いに敬意を払っていました。ヘレン・クレラー・ミューラーは1917年からのモンドリアンの「Composition in Line」(コンポジションシリーズ)について、「最も純粋な形のキュビストの芸術」と書き記しています。モンドリアンが試行錯誤しながらストイックなまでに取り組みつづけた、水平と垂直の直線だけによって分割された画面に、赤・青・黄の三原色だけを使うという「コンポジションシリーズ」を今回の展示で一連の流れとして鑑賞することは、彼女自身のコレクションの姿勢も大いに感じ取ることができるでしょう。

美術品の寄贈

Wm. H. Müller & Co.はクレラー家が経営する会社ですが、経済不況を受けてクレラー家も大きな打撃を受けることになります。そのため、会社の経営状況をふまえて、クレマー家の状況も収集した美術品と田舎のホーヘ・フェルウェ所有地の両方もが危機に面してしまいました。

そのため、今まで収集した美術品の数々がバラバラにならないように、そしてどこにも流出することがないようにと考え、1935年ヘレン・クレラー・ミューラーはコレクションを収蔵するのにふさわしい美術館を建設することを条件にして、オランダ政府に寄贈することになりました。

20世紀最大のコレクションのクレラー=ミュラー美術館所蔵作品が来日!点画主義にフォーカスした美術展

20世紀最大のコレクションのクレラー=ミュラー美術館所蔵作品が来日!点画主義にフォーカスした美術展 イメージ