表現主義の先駆者フィンセント・ファン・ゴッホ

ヘレン・クレラー・ミューラーが一番好きな画家はフィンセン・ファン・ゴッホです。彼が亡くなってから数年後には、ゴッホの絵の収集を始めているので彼女の慧眼には感服します。ゴッホは周知の通り生前に売れた絵はわずか1作品「赤い葡萄畑」だっといわれていますが、ゴッホの晩年にはゴッホを高く評価する評論が出始めていたたためあともう数年でも、ゴッホが生きていたら・・とも思えます。ゴッホは亡くなってから回顧展が開催されたり、ゴッホの弟テオとの書簡集やゴッホと友人との書簡集が発売されたりといった出版物などを通じてゴッホの知名度はどんどん上がっていきました。

フィンセント・ファン・ゴッホ

ゴッホの芸術性は、まさに表現主義の先駆者です。ゴーギャンやセザンヌと並びポスト印象派を代表する画家ですが、ゴッホの作品は印象派たちの美学の影響を受けつつ、印象派とはまた違う大胆な色彩とタッチで、ゴッホ自身の内面や情念を表現している作品です。ゴッホの作品は、外からの光の効果を画面上に捉えることに追求した印象派とは一線をかすものでした。

ゴッホが絵を描いた期間は10年に満たない期間だったことを考え、そしてゴッホの絵が展覧会に出品し始めた頃に亡くなったことを考えれば、ゴッホの描いた絵が成熟してそして批評家や評論家たちに承認されるまでの期間を考えると10年未満というのは、むしろ短いともいえるかもしれません。ゴッホは耳きり事件や発作による入院などで、ゴッホの描いた作品以外のところでも有名なエピソードが多々ありますが、ゴッホの主要作品の多くのは、ゴッホがフランスに居住していた1886年以降の、特にアルル時代の1888年~1889年5月と、サン=レミの精神病院で療養生活を送っていた1889年5月~1890年5月に制作された作品に分けられます。

ゴッホの前半期

ゴッホが生まれたのはオランダ南部ズンデルトで、1853年にオランダ改革派牧師の長男として誕生しました。フィンセントは小さな時から「手のかかる子」でした。癇癪もちだったので、両親も家政婦も手を焼いていた子ども時代を過ごしています。そしてキーッーーーーッ!!と癇癪を起こすだけではなく、フラーッと親に無断でひとりで遠出することも珍しいことではなく、背丈の低いヒースが広がる低湿地帯を歩き回って、花や昆虫、鳥などを観察して一日を過ごした少年時代を送っていました。

初年時代は村の学校へ通い、そして家庭教師の指導を受けて少年時代を過ごしていますが11歳の時にフィンセントが父親テオドルスの誕生日のために描いたと思われる「農場の家と納屋」と題する素描が残っていますが、この絵から既に絵の才能の可能性を示している作品になっています。

フィンセントは新しくできた国立高等市民学校へ進学して寄宿舎へ入りますが、卒業をあと1年残してなぜか家へ戻っています。フィンセント自身はその理由を特に述べていませんがフィンセント自身が後に弟テオに宛てた手紙の中で「若い時代は陰鬱で冷たく不毛だった」と述べています。

グーピル商会

伯父の協力でフィンセントは、美術商会グーピル商会で働くことになります。画商のグーピル商会のハーグ支店の店員として4年間過ごしています。このハーグ支店のときに、グーピル商会の近くにあるマウリッツハイス美術館で、オランダ黄金時代の絵画の代表するレンブラントやフェルメールに触れて美術にフィンセントは興味を持つようになり、それだけではなく新しく出てきたオランダハーグ派の絵にも触れる機会もありました。

ハーグ支店で4年働いたあと、ロンドンへ異動になりロンドンんで失恋したことから孤独感を強めることになり、宗教的情熱を強めるようなりキリスト教への関心を急速に深めた時期になります。そしてロンドンから2年後パリ本店へ移動となり、パリでも聖書や宗教的な本を読みふけるようになり、金儲けだけを追及しているグーピル商会の仕事へ反感を募らせるようになり、結局フィンセントは、グーピル商会から解雇する通告を受けることになりました。

聖職者を目指す

パリからイギリスへ戻り、少年達に無給で教師として働きましたが、フィンセントの希望は伝道師になって貧しい人々や労働者の間で働きたい。聖職者として働きたいという願いを抱いていました。そのため貧民街でお手伝いをしながら少年たちに聖書を教えたり牧師のお手伝いをして過ごしていました。そしてますます伝道師になりたいとう願いを強く持つようになり、クリスマスに帰省した際に父親に聖職者となりたいことを伝えますが、聖職者になるには7年から8年もの勉強が必要ということから無理だという牧師として働く父親の説得を受けることになりました。

この頃のフィンセントは、食卓で長い間祈り、肉を口にすることはなく、日曜日になると父親のオランダ改革派教会だけではなく、カトリック教会、ルター派教会、ヤンセン派教会などに通い、ますます聖職者になりたいとい希望を募らせていき、受験勉強になんとしても耐えることを父親に誓って説得しました。

そしてアムステルダムへ移り、親戚を頼り王立大学での神学教育を目指して受験勉強へ励みますが、ギリシャ語やラテン語という複雑な文法だけではなく、歴史、地理、代数、幾何学、オランダ語文法という受験科目の多さに挫折を味わい精神的に追い詰められていきます。

そして父親が息子フィンセントの様子を見に訪れた際、父親から勉強が進んでいないことを厳しく叱責され、そして学費も自分で稼ぐよう言い渡された結果、ますますフィンセントは勉強から遠ざかることになりました。結局王立学校神学を学ぶことではなく、伝道師として貧しい人々へ聖書を説くという思いを強くしたフィンセントは、今度はベルギーへ行き、ベルギーの伝道師養成学校で3ヶ月の修業期間を経て、ベルギーの炭鉱地帯でパン屋さんで下宿しながら伝道活動を始めます。

熱意を認められたフィンセントは、半年間の伝道師としての仮免許と月50プランの棒給が与えられることになり、伝道活動を始めますがそこでフィンセントは、貧しい人々に説教を行い、病人やけが人へ献身的に勤め、フィンセント自身も貧しい人々と同じように生活をして着用するものもみすぼらしくなりました。フィンセントは貧しく苦しみの中に神の癒しを見出すことを解いていきますが、みすぼらしい服装で、キリストのことを説くフィンセントの姿勢は、伝道師としての威厳を損なうものとして否定されることになり、伝道師の仮免許と棒給は打ち切られてしまいました。

27歳で画家になることを決意

伝道師としての道を閉ざされたフィンセントは、ベルギーのボリナージュ地方クウェムに住む伝道師と炭鉱夫の家に移り住むことになりました。そこでは父親からの仕送りに頼った日々で、デッサンをしたり炭鉱夫のスケッチをしたりして過ごしていました。フィンセントの家族からは、仕事もせずに仕送りに頼った生活を送っているフィンセントに対して、厳しい目が注がれることになり、弟のテオがフィンセントの元を訪れた際には、年金生活者のような暮らしぶりについて批判もされています。

そのため、絶望の中でフィンセントは北フランスへ放浪の旅へ行き、お金も食べるものも泊まることもなくただひたすら歩き回った状態を続け、ついに実家へ戻りましたがフィンセントの逸脱した傾向を憂慮した父親が、フィンセントを精神病院へ入れようとしたことに反発して口論となり、再びベルギーのクウェムへ戻りました。ベルギーのクウェムへ戻ったフィンセントには弟のテオから生活費の援助が始まりました。

この時期クウェムでスケッチしたりして過ごすうちに、フィンセントは本格的に絵を描くことを決意したようです。そのため、19世紀の画家ジャン=フランソワ・ミレーの複製を手本に素描の練習をしたり、デッサン教本を模写したりしていることからこの頃には本格的に絵描きをすべく努力している姿が伺えます。

そして、本格的に絵を勉強しようと突然ブリュッセルへ出て行き、そこでいろいろなモデルをデッサンしているうち、ブリッセル王立美術アカデミーに在籍していた画家とも交流を持つようになっています。そこで画家を本格的に目指すのであればアカデミーに進むよう勧められてもいます。この時期に誰に教わっていたかは不明ですが、短期間ではありますが遠近法や解剖学のレッスンを受けていたことが伺えます。

20世紀最大のコレクションのクレラー=ミュラー美術館所蔵作品が来日!点画主義にフォーカスした美術展

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